ゾンビ先生、母校に帰る
帯の惹句に騙された!
さて、なにがダメだったのかを羅列してみると。
この作品は大雑把に括ると、ライトノベルの王道のひとつである「部活小説」である。部活小説の基本コンセプトは、部活動という枠に集う奇人変人達の面白おかしい暴走(と成長?)にあるといえる。この点に関しては、若干の不満(後述する)もあるが、概ね外れてはいない。基本的なアイディアは悪くはないのだ。ありがちではあるけれど、キャラ主導型で活き活きと動き回るスラップスティックコメディとするには相応しいと思う。
だが、問題は、登場人物たちが活き活きと動いているのかという点。これが全然ダメで、書き割り調ともステレオタイプとも違う、なんだか説明がつかないけれど「活きてない」という状況なのだ。とにかく書けてないという印象しか残らない。若書きなのだろうか。
その一環でもあるが、文体が古臭い。これまたどこがどうと説明できないのだけれど、なんかもったりとして重たいのだ。今日びの小説は(内容にもよるけれど)もっと軽快だと思う。特に本作のようにライトなコメディを基調とするのだらばなおさらそうであるべき。
実は読んでいて、田中芳樹のもたつきに非常に近いように感じた。あえて説明しなくてもいいようなことまで書いてしまうとか、ギャグがギャグになっていないとか、杓子定規に律儀すぎて場の雰囲気を壊す、しかも自分はそれに気づいていない。そういう人っているでしょう? そういう感じ。垢抜けないことおびただしい。
これは好き好きなのだろうが、妙にポリティカルな書き方が散在している。つまり陰謀史観というか、政府や企業はみんな悪で、その巨悪を正義を主張する主人公たちが退治するという構図だ。そういうのってヘンに正義ぶった偽善というか、青臭いというか、粋じゃないというか、ようするにダサい。少なくとも自分はそういう作話に対するスタンスは受け付けられな。確かに悪者をやっつけるという構図自体はいいのだ。けれど、それが常に役所や巨大企業にあり、自分達は虐げられており、それに対応すべき。という仕組みはいかにも一面的で、過剰な被害者意識による遠吠え的な印象しか感じられない。小説で憂さを晴らしている負け犬作家みたいな感じがとっても嫌いなのだ。正論吐いてればいいってもんでもない。ここらへんも田中芳樹のダメさに非常に似通っている(この作家は、たぶん、好きなんだろうなぁ)。自分としては、真逆の親和性であり、必然的にこの作品との相性も悪いんだろうと思う。
実はこれが一番ダメなところなのだけれど、科学研究所を名乗っているくせに、全然科学していないのだ。科学する心とは、物事を客観的に見つめ論理的に分析し、結論を導き出していくこと。その結論に至る道で、論理の飛躍とパラダイムシフトが描ければ、そこにセンスオブワンダーが生じるのだと思う。もちろん、これにマッドな要素が加われば最高に楽しい知的冒険になる。しかし、本作にはそれがない。科学研究所というサークルである以上、物語としてこのサークルが大活躍するという構成上、科学とはなにか、疑似科学ではない暴走するマッド科学とはなにか、そのことに対する真剣な意思が感じられない。あるいは、幽霊という存在に対する仮説が一応それにあたるのかもしれないが、そのことに対する仮説を理論的に論旨展開せず、そういうもんがあるという前提で話が進む。結局、科学的ではないのだ。そこに知的冒険はない。
事程左様にツメの甘い内容で、ああ、失敗したなぁ、という読後感であった。
マドカの科学研ゾンビ先生、母校に帰る (TOKUMA NOVELS Edge) 著者:野中 亮 |
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