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2007年6月26日 (火)

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん

物語としては、詐述トリックのミステリーを根幹とした、青少年特有のイタイ内省的な話である。連続殺人と誘拐(の犯人)という扇情的なキーワードを推進力に物語を進め、クライマックスですべてのピースがあるべき位置に収まり、そして生きていく意味を(少しだけ)見出していく。そういう、現在のライトノベルのひとつの方向性の中の位置作品である。

若書きという点を考えれば、多少の荒さは許容の範囲だろう。テーマもしかり散りばめられた偽悪的なギミックもしかり、どことなく舞城王太郎を思い出させるが、それは別に同一のタイプの作品であることでもないし、同一の面白さをもつということでもないが、しかし、シーズはあるのかもしれないとも思う。

しかし、最近特に感じているのだけれど、ライトノベルというジャンルがマンガの文章化という位置づけの中、超人戦闘であったり妄想恋愛であったりと、目的と手法が一体となったサブジャンルを構成しているのは周知のとおり。しかし、お手軽なエンターテイメントとして縮小再生産を繰り返しているのもまた事実で、結果、オリジナリティも薄れ、新たな驚きを得る機会は減っている。そのように疲弊したジャンルをてこ入れしようとする場合、必要以上に刺激的でインモラルすれすれのカンフル剤を用いることは当然の流れであろう。これは、TVにしろマンガにしろ、どのジャンルでも経験してきているものだ。

最近のライトノベルを読むにつけ、エロ小説すれすれ(そのものですらある)であったり、バイオレンス小説であったり、確実にR18指定になり得る作品が増えすぎているように思う。自分自身そういう作品は嫌いではないし、逆に意図的に好んで読んだりもするのだけれど、それはあくまでもサブであって、メインであるべきではないとも思うのだ。じゃあ、(ステレオタイプのという意味ではなく)王道のライトノベルはなにか、といわれると、明確には云えないのだけれど、最近の爛熟ぶりには、さすがにそれはマズイだろうと思うことが多すぎる

ま、いったんドロドロになってそこからまた新機軸が生まれ出るということもジャンルの進化パターンである。今はそこに至るまでの過程の道中ということなのだろうか。

で、この作品の感想に戻るが、上述とは逆の云い方になるのか、あるいは補強になるのか判らないが、この作品はライトノベル的ではないし、ライトノベルではないなあ、と思うのだった。自分のイメージとしては、講談社ノベルズあたりなのだけれど。でもって、ラストの甘さはぶっちぎって、死に至る物語として後味悪く終わる、と。そういう印象がある。
褒めてるようで褒めてないな。ま、次回作に期待するってことで。

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