ミミズクと夜の王
実にストレートな物語なのである。ヘンにトリッキーでなく、驚愕のどんでん返しがあるわけでもなく、予想外の展開もない。
と書くと、ステレオタイプの凡庸な作品であるかのようだが、そんなことはけしてない。とどのつまり、物語とは(人によって数は変わるが)想像し得る選択肢の中から、ひとつひとつ未来を選び出すことでのみ成立するものである。それは型にはまったステレオタイプを意味するのではない(ステレオタイプとは選択肢のない既定の一本道を単になぞる行為だからだ)。
つまりなにが云いたいかというと、この小説はごく真摯に語られた物語であるということだ。
全体をつつみこむフォークロア(御伽噺)調の物語、語り口がどこか懐かしさと暖かさを感じさせるのである。そしてだからこそ、そこはかとない悲劇性を想像せずにはいられなかった自分があった。おそらくそれは、自分はこの手の話を読みすぎていて、「この話はどこかで必ずどんでん返しが起こって、ハッピーエンドにはならないのだろう」と邪推してしまったせいだ。なんというスレた自分。だから、ラストで誰もが納得できるであろう幸せを手に入れて終わったことに対して、物語的には大団円なのだがしかし、「はたしてそんな甘さでいいのか?」と思ってしまい、そんなにひねくれなくてもいいのに。と自分を反省するのである。
これは好きずきなのかもしれないが、登場人物や国の名前などの固有名詞として、西洋風のカタカナ名詞を選んだことについては、ちょっとどうかな、と思うのだった。
この物語はいわゆる普通の異世界ファンタジーではなく、むしろ、ファンタジーの形式を借りた寓話として読むべき、あるいは書かれるべき小説であったのではなかろうか。それは、語り口がフォークロア調だからということも起因しているのだけれど、カタカナ名詞を使用することによって、名詞が特定のモノを規定してしまう。その規定先がありふれた通俗的な異世界ファンタジーを連想してしまうようでは、作品の本質的なよさを減じているように感じたのだ。
第1章あたりの、主人公ミミズクや魔王などの日本語的ネーミングを用いる語りの部分では、固有名詞が日本語であるが故に、特定のモノではなく、象徴/概念を形而下として表したモノとなり、固有名詞ではなく一般名詞としてのニュアンスをより醸し出すように機能しており、実に寓意的な物語となっていた。それをラストまで書ききってもらえれば、この物語は、ファンタジーではなく、いしいしんじの描くようなより普遍性を持った寓意性の高い御伽噺となったのではないか、と思う。
と、重箱の隅をつつくコメントをはさんではみたが、ここ最近まれにみる大ヒットだったのだ。誰かに紹介してくてしかたのない物語だったのだ。傑作。
あとは、せっかく美しく完結したのだからヘンに続編などに色気を出さず、このまま閉じておいてほしいと願うばかりである。
ミミズクと夜の王 著者:紅玉 いづき |
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